西極楽寺住職ブログ

雲香る

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2025年2月1日

2025年2月 伝道掲示

 2025年になって、早くも一ヶ月が過ぎました。時が過ぎるのは早いですし、何もしていなくても時はどんどん進んでしまうものです。かけがえのない命を生きている私たちは、時間をどれほど大切に使っているでしょうか?そのことを深く考える御縁となるのが、浄土宗を開いた<法然上人のお言葉>です。多くの人が、仏教の行き渡る世にありながら、遊びに耽り仕事に追われ、悪業を重ねるだけで、修行せずに過ごしていることに「本当にそれでいいのですか?」と投げかけてくださっているような文章です。

<法然上人のお言葉> 和訳(原文を見たい方は最下段をご覧ください)

 ある時は〔荊洲〕金谷園の花を慰みとしてはのどかな春の日を空しく過ごし、ある時は〔武昌県〕南楼閣で月を詩に詠んでは長い秋の夜をいたずらに明かすのです。

 ある時は千里の雲の彼方まで走っていっては山の鹿を捕らえて年月を送り、ある時は万里の波間を漂っては海の魚を捕らえて月日を重ね、ある時は厳寒に氷をかき分けながら世渡りし、ある時は炎天下に汗を拭いながら財物を求め、ある時は妻子や親族にまとわり付かれて情愛の絆は断ちがたいのです。ある時は仇敵に出会って怒りの炎の消えることがありません。

 すべてこのようにして、昼夜朝暮、立ち居起き臥し、少しの間も止むことがないのです。ただ勝手気ままに、どこまでも三途八難を招く悪業を重ねてしまいます。

 ですから、ある経文には、「人間には、一日に八億四千の思いがわき起こる。その思いの中で行うことは、みな三途へ堕ちる悪業である」とあります。

 このようにして昨日も空しく夜を迎えました。今日もまた空しく朝を迎えました。このうえ、いくたび夜を迎え、いくたび朝を迎えるのでしょうか。(以上、和訳)

 いかがでしょうか?目の前の事を追い求めて、ときには欲望によって、自らをも他者をも苦しめて生きている現状を、800年以上も前に言い当てているようです。人間という存在は昔も今も変わらないということでしょう。そして、私たちの行いが三途(地獄・餓鬼・畜生)という苦しみばかりの世界に堕ちていく原因であると教えてくださっています。たとえ法律を犯さなくても、うまくいくときにはどんどん欲を出してしまう、思い通りにならなければ腹を立てる、自分中心の考えで生きてしまう、そうやって苦しめあいながら生きているのが現実の姿なのです。

 悪業(悪い言動)を繰り返す時間を過ごすのではなく、仏様に手を合わせ、お念仏(南無阿弥陀仏と唱えること)をして生きることをお勧めします。三途に堕ちるべき人を哀れんで極楽へ救ってくださるのが阿弥陀仏です。苦しみの無い極楽浄土に迎え取られることを願って「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・・」と唱えるのです。南無とは「極楽へ迎え取ってください」という願いです。阿弥陀仏にお願いするから「南無阿弥陀仏」と唱えるのです。お念仏に御縁のある方は、臨終の間際に、阿弥陀仏が必ずお迎えに来てくださって、死の苦しみを取り去り、安らかな中で最期を迎え、気が付けば極楽浄土に往生させていただけるのです。

 「(仏教の修行を)何もしなくても時は進む」のです。この世のことばかりに夢中になっていては、後の世以降も苦しまねばなりません。地獄に落ちてからでは、「後悔先に立たず」です。毎日手を合わせ、お念仏を唱えることをお勧めいたします。

 

<法然上人のお言葉 原文>                                  

 あるいは金谷の花を玩びて遅々たる春の日を虚しく暮らし、あるいは南楼に月をあざけりて漫々たる秋の夜を徒らに明かす。

 あるいは千里の雲に馳せて山の鹿を捕りて歳を送り、あるいは万里の波に浮かびて海の鱗を捕りて日を重ね、あるいは厳寒に氷を凌ぎて世路を渡り、あるいは炎天に汗を拭いて利養を求め、あるいは妻子眷属に纏われて恩愛の絆、切り難し。あるいは執敵怨類に会いて瞋恚の炎、止むことなし。

 惣じてかくのごとくして、昼夜朝暮、行住坐臥、時として止むことなし。ただほしきままに、飽くまで三途八難の業を重ぬ。

 然れば或る文には、「一人一日の中に八億四千の念あり。念々の中の所作、皆是れ三途の業」と云えり。

 かくのごとくして、昨日も徒らに暮れぬ。今日もまた、虚しく明けぬ。いま幾たびか暮らし、幾たびか明かさんとする。

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